どうもぐっさん(@goodsun_30)です。
元号が平成から令和に変わる時が近づいていますが、令和の典拠は万葉集に収められた「梅花の歌32首 序文」にある
初春の令月にして
気淑く風和ぎ
梅は鏡前の粉を披い
蘭は珮後の香を薫ず
という一節です。
梅花の歌32首は大宰帥・大伴旅人の邸宅で開かれた「梅花の宴」で詠まれたことから、令和の聖地として福岡県の太宰府市が大きく取り上げられています。
というわけで、今回は令和時代が始まる前に太宰府市に久しぶりに赴いて令和関連のあれこれを巡ってきました。
※大宰府に太宰府の使い分けについて - 律令制下の役所を指す場合は「大」を使い、現在の地名には「太」を使っています。
梅花の宴とはなんぞや?序文とは?
梅花の宴とは?
そもそも「梅花の宴」がなんなのかって話ですが、簡単に言うと大伴旅人が自宅で開催した宴会です。
詳しく説明すると、大宰府(九州を統括する役所)の長官として赴任していた大伴旅人が、正月13日(現在だと2月8日)に大弐紀卿、小野老、山上憶良など、当時同じく九州に赴任していた官人31名(旅人含めて32名)を自分の邸宅に集めて、梅を見ながら梅に関連した歌を詠もうではないか、ってことで開催した宴のことです。
歌の題材になっている梅は現在太宰府市の市章になっていて、太宰府天満宮にもたくさんの梅の木がありますが、もともとは中国から輸入された植物で、当時は貴族の家くらいにしかなかったとのこと。
「梅花の宴」は中国渡来の梅を題材にして中国風の詩作で和歌を詠むというもので、当時の日本最高レベルの知識人たちの風流な遊び、といった感じだっだんじゃないかと思います。
ただ、単なる遊びかというとそうでもないらしく、前年に妻を亡くした旅人を慰めるため、中央の政変(長屋王の変など)に関する官人たちの動揺をおさめるため、などいくつか説があるみたいで、当時の複雑な事情がいろいろあったのかもしれません。
序文とは?
「梅花の宴」の序文の前文と現代語訳は以下の通りです。
(全文)
天平二年正月十三日、帥の老の宅に萃まりて、宴会を申きき。
時に、初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫ず。 加之、曙の嶺に雲移り、松は羅を掛けて蓋を傾け、夕の岫に霧結び、鳥は縠に封められて林に迷ふ。庭には新蝶舞ひ、空には故雁帰る。
ここに天を蓋とし、地を座とし、膝を促け觴を飛ばす。言を一室の裏に忘れ、衿を煙霞の外に開く。淡然に自ら放にし、快然に自ら足る。若し翰苑あらぬときには、何を以ちてか情を攄べむ。請ふ落梅の篇を紀さむ。古と今とそれ何そ異ならむ。園の梅を賦して聊かに短詠を成す宜し。
(引用:太宰府市『太宰府市史 文芸資料編』)
(現代語訳)
天平二年(730)正月13日、帥老の宅に集まって宴会を開く。
あたかも初春のよき月、気は麗らかにして風は穏やかだ。梅は鏡台の前のお白粉のような色に花開き、蘭草は腰につける匂袋のあとに従う香に薫っている。しかも、朝の嶺には雲が動き、松は雲の薄絹を掛けたように傘を傾ける。また夕の山洞には霧が立ちこめ、鳥は霧の縮み絹に閉ざされたように林に迷い飛ぶ。庭には生まれたばかりの蝶が舞い、空には去年の秋に来た雁が北に帰って行く。
さてそこで、天空を覆いとし大地を敷物としてくつろぎ、膝を寄せ合っては酒盃を飛ばす如くに応酬する。一堂に会しては言葉を忘れ、美しい景色に向かっては心を解き放つ。さっぱりとして心に憚ることなく、快くして満ち足りている。詩歌を他にして、この思いを何によって述べようか。詩には落梅の篇を作るが、古も今もどんな違いがあろう。さあ、園梅を詠んで、ここに短き歌を試みようではないか。
序文というのはざっくり言えば、梅花の宴で詠まれた32首はこういうものです、と紹介した文のことです。
引用した全文と現代語訳の雰囲気だと、「さあこれから始めますよ!」という感じで、梅花の宴が始まる前に詠まれたようにも見えますが、歌が全部詠まれた後に作られた文みたいです。
序文は大伴旅人が作ったとされていますが、作者は記されていないため正確にはわかっていないとのこと。
「梅花の宴」と序文について説明したので、ここからは太宰府市にある令和関連のスポットを紹介します。
大伴旅人邸候補地
「梅花の宴」が開催された大伴旅人邸は実は正確にはわかっていなくて、今のところ3か所が候補地として挙がっています。
その候補地3か所を回ってきました。
坂本八幡宮
まずは大宰府政庁跡の北西側にある坂本八幡宮。
大宰府政庁の裏手にあって、過去には出土品もあるため邸宅跡の有力な候補地とされています。
坂本八幡宮はニュースなどでよく取り上げられているため、観光客も多く、盛り上がっていました。
神社の前には令和を祝う幟が立っているし、本殿には「令和」と彫られた竹があったりと令和一色といった感じ。
令和と書かれた額を持っての記念撮影もできます。
氏子さん総出で令和ゆかりの地として坂本八幡宮を盛り上げようとしていました。
御朱印についても5月1日から500円で頂けるようになるみたいです。
境内の脇には万葉歌碑もあります。
梅花の宴で詠まれたものではないですが、大伴旅人が詠んだものです。
わが岡にさ男鹿来鳴く 初萩の花嬬問ひに来鳴くさ男鹿(大伴旅人)
訳)私の住む岡に牡鹿が来て鳴いている。今年初めての萩の花が咲き、牡鹿がやってきて妻問いをしていることよ。
旅人は大宰府赴任早々に妻を亡くしていて、この歌は萩の花に寄り添う牡鹿を自分を重ねたのではないかと言われています。
月山東地区官衙周辺
坂本八幡宮の次は大宰府政庁東側にある月山東地区官衙周辺。
官衙(かんが)とは役所のことで、これまで9棟の掘立柱建物が見つかっています。
なぜここが候補地となっているかといと、この周辺で見つかった玉石敷きの溝が庭園の跡ではないか?ということと、旅人の歌の中に丘陵を詠んだものがあり、写真に写っているように丘もあるからということみたいです。
玉石敷きの溝はすぐそばにある大宰府展示館で展示されているので、見てみてください。
榎社周辺
大宰府政庁跡の南側にある榎社の東側も候補地の一つです。
榎社がある場所は大宰府へ赴任する官人の官舎「府の南館」があったとされていて、大宰府に左遷された菅原道真が住んでいた場所でもあります。
官舎があったということなので、この辺りに大伴旅人が住んでいたと言われても不思議ではありません。
榎社の東側が大伴旅人邸候補地となっていますが、東側はこんな感じで住宅地になっていて当時の面影を残すものは何もない感じです。
今回は下調べ不足で行きそびれたんですが、もう少し東の方に行くと「推定朱雀大路と宅地の碑」というのもあるので、そのあたりに邸宅があったのかもしれません。
大宰府展示館
大宰府展示館には梅花の宴やその時に振る舞われた食事を再現したもの、玉石敷きの溝などが展示されています。
入館料は無料です。
これは博多人形で作られた「梅花の宴」を再現したジオラマです。
梅の花びらが舞う中、宴が開かれている様子が再現されています。
正面に紫の服装の人物が大伴旅人です。
この写真ではよく見えませんが、この当時梅の花びらを頭につけるのが流行りだったそうで、大伴旅人の頭にも何枚か梅の花びらがついていました。
これは梅花の宴で出された食事を再現したもの。
干肉、鮑の蒸し物、魚類から酒のおつまみ、お菓子まであってかなり豪華です。
それだけ身分の高い者たちが集まった宴だったことがわかります。
当時は冠位によって朝服(朝廷に出仕する時の衣服)の色が決められていて、大宰帥は浅紫でした。
梅花の宴が再現されたジオラマでも大伴旅人だけ紫の朝服を着ています。
これは月山東地区が大伴旅人邸宅跡地でないかという根拠の一つになっている玉石敷きの溝。
当時の姿のままで保存・公開されています。
大宰府展示館は令和関連以外にも大宰府の歴史と文化に関するものがたくさん展示されていていろいろ学べるので、まずは大宰府展示館に行くのがおすすめです。
大宰府政庁跡
梅花の宴に直接関連するものではないですが、大宰府政庁跡は当時の雰囲気を感じられる場所でした。
大宰府とは九州の統治、西の防衛、外国との交渉の窓口となる役所のことです。
規模は平城京、平安京に次ぐもので、「遠の朝廷(とおのみかど)」とも呼ばれるほど重要な行政機関でした。
写真の後ろには四王寺山(大野城)、前方には天拝山や基山(基肄城)、西に2キロほど行った場所には人工的に作られた土塁である水城があり、防衛もしっかりされています。
写真を見てわかるように、大宰府政庁跡には建物は全くなく礎石があるだけですが、開けた場所で周りに高い建物がないので、昔の姿をなんとなく想像することができます。
ただのんびりするのにもいい場所だと思います。
万葉歌碑(梅花の宴で詠まれたもの)
万葉集には筑紫(今の福岡県)で詠まれた歌が多くあり、太宰府市内には万葉歌碑が点在しています。
中には梅花の宴で詠まれた歌もあって、今回は6つ見てきました。
今回見ていない歌碑も下のマップには載せているので興味のある方はどうぞ。(同じ歌の歌碑もあるので注意してください)
大宰府政庁跡
正月立ち春の来たらばかくしこそ 梅を招きつつ楽しき終へめ(大弐紀卿)
訳)正月になり春がきたなら、このように梅を招いて楽しい日を過ごそう。
この歌は「梅花の宴」の開始にあたり、主賓・大弐紀卿が梅を客人のように見立てて歓迎したお祝いの歌とされている。(説明板より)
この万葉歌碑は大宰府政庁跡と坂本八幡宮の間にあります。
もし、坂本八幡宮に大伴旅人の邸宅があったならこのあたりで「梅花の宴」が開催されたことになります。
歌碑の後ろに見える木は梅だったので、春だと一層雰囲気が出るはずです。
太宰府市役所
春さればまづ咲く宿の梅の花 獨(ひとり)見つつやはる日暮さむ(山上憶良)
訳)春になると、真っ先に咲くこの家の庭の梅の花を、ただ一人で見ながら春の長い日を暮らすことであろうか。
太宰府市役所正面玄関のそばにある万葉歌碑で、「梅花の宴」で4番目に詠われた歌です。
市役所は大宰府政庁から1キロくらいの場所にあります。
太宰府天満宮
太宰府天満宮には「梅花の宴」で詠まれた歌碑が2つあります。
よろづよにとしはきふともうめのはな たゆることなくさきわたるへし(佐氏子首)
訳)はるかな世までも年は来ては過ぎ去ってゆくが、梅の花は絶ゆることなく咲き続けることであろう。
太宰府天満宮菖蒲池の北側にある万葉歌碑です。
わか苑に梅の花散る 久方の天より雪の流れくるかも(大伴旅人)
訳)わたしの園に梅の花が散っている。それとも天から雪が流れてくるのであろうか。
梅花の宴で大伴旅人が詠んだ歌碑は九州国立博物館に向かうエスカレーターの横にあります。
太宰府歴史スポーツ公園
大宰府政庁跡、太宰府天満宮からは少し離れますが、太宰府歴史スポーツ公園にも「梅花の宴」で詠まれた歌碑が2つあります。
展望広場までの道に万葉歌碑がいくつかあって、大伴旅人が詠んだ歌碑もありました。
梅の花散らくはいづく しかすがにこの城の山に雪は降りつつ(伴氏百代)
訳)梅の花が散るというのはどこであろう。それはそれとして、この城の山には雪が降りつづいている。
太宰府歴史スポーツ公園内の展望広場下にある歌碑です。
「この城の山」とは大宰府政庁跡の裏側にある四王寺山のことを指しているとこと。
春の野に霧立ちわたり降る雪と 人の見るまで梅の花散る(田氏真上)
訳)春の野に霧が立ち渡って、あれは降る雪かと誰もが見紛うほどに梅の花が散っている。
太宰府歴史スポーツ公園内の展望広場下東側にある歌碑です。
令和関連のあれこれのマップ
今回僕が行った場所と+太宰府市に点在している「梅花の宴」の万葉歌碑のマップです。
赤が大伴旅人邸の候補地、青が大宰府政庁跡と大宰府展示館、緑が万葉歌碑です。
太宰府までのアクセスは西鉄大牟田線か、博多バスターミナルから福岡空港を経由して太宰府方面に向かう太宰府バスライナー「旅人」の利用がおすすめです。
太宰府を細かく観光したい場合は、コミュニティバス「まほろば号」を利用するかレンタサイクルを利用するといいと思います。
さいごに
久しぶりに太宰府に行って令和の聖地巡礼?をして歴史の勉強ができました。
令和関連を巡るのであれば、大宰府展示館→大宰府政庁跡→大弐紀卿の万葉歌碑→坂本八幡宮の順がいいと思います。
このコースの最初か最後に太宰府天満宮を入れるといい福岡観光になるはずです。