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言うは易く行うは難し

福岡に残る元寇遺跡~地行地区の元寇防塁

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どうも、ぐっさんです。

センター試験が話題になっていたので、試しに日本史の問題を解いてみたら全くわからなくて5分でやめました。歴史は得意な方だったので、そこそこわかるかなと思ったんですが、甘かったです。日本の歴史を改めて学び直したいなと思う今日この頃です。

 

さて、今回は祖原公園に続いて、また元寇遺跡を見てきました。

今回行ってきたのは、地行という場所で、ヤフオクドームに近い住宅地です。大通りからちょっと小道に入るとフェンスで囲まれた空き地があって、そこが元寇防塁跡となっています。

見たところ、説明書きはあるんですが、防塁らしきものは見当たりません。それもそのはず、この場所は特に発掘調査などされていないんだそうです。じゃあなんでここが史跡になっているの?という疑問が浮かびますが、いろいろな史料から推測するとこの辺りに防塁があるはずだってことなんでしょうか?

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フェンスがあって一部見えませんが、

 13世紀にアジアからヨーロッパにまたがる巨大な帝国をつくりあげたモンゴル(元)は、5代目皇帝フビライの時に、日本への死者を送り、通交を求めました。日本がこれに応じなかったため、文永11年(1274年)の10月に大軍を持って対馬・壱岐を襲った後、博多湾へ上陸し、日本軍と激しい戦闘をくりひろげ、この時、博多の町は焦土と化しました(文永の役)。

 元寇防塁とは、鎌倉幕府が元の再襲来に備え、建治2年(1276年)に九州各地の御家人に命じて、約半年間で博多湾岸の東区香椎から西区今津までの役20㎞に築かせた石築地のことです。

 この地行地区の元寇防塁は、博多湾岸のほぼ中央部に位置しますが、その構造や築造分担国などまだわかっていません。

 なお、弘安4年(1281年)に元の大軍は、再び日本をせめましたが、この防塁のために上陸できませんでした(弘安の役)。

と記されています。

この辺りが元寇防塁の中間点だったんですね。

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見た感じはなにもないただの空き地です。

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もしかしたら、奥にある石が元寇防塁があったことを示しているのかもしれませんが、フェンスがあって中に入れないので、しっかり確認できませんでした。

 

元寇防塁跡がしっかりわからなかったのは残念ですが、有名人も住むような住宅街にポツンとたたずむ元寇遺跡はなんだか不思議な感じがありました。

 

 

説明書きのあったように、元寇防塁は香椎から今津まで約20キロに渡って築かれたそうで、今でもところどころにその跡が残っています。今回行った地行地区では防塁の跡が全くわかりませんでしたが、西南学院や今津に行けばしっかりと元寇防塁の形がわかるはずなので、時間がある時に行ってみたいと思います。